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Showing posts from June, 2023

Tamori is a talented Japanese comedian.  才能溢れるお笑い芸人の日本人「タモリ」。

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Tamori is a talented Japanese comedian. お待たせ 才能溢れるお笑い芸人の日本人「タモリ」。 「タモリ」が森田の反対の読みから来ている事は、早くから知っている。 私が衝撃を受けたのはニワトリの携帯模写だったと思う。なぜか、凄い奴だな~と感じた記憶がある。 それから後、何だか気になるタレントでした。 埋もれいた才能が世に出て花開いたと言う感じの人生ではありませんか。 最近は司会の仕事が多いようです。「司会者ながら、聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴がある。」とウキペディアで書かれているように 淡々とした中にインテリ芸風を感じさせる独特なスタイルが受けているようですね。 益々、活躍してください。(2009) ■タモリ(本名:森田 一義(もりた かずよし)、1945年(昭和20年)8月22日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、俳優、歌手、声優、ラジオパーソナリティー、作詞家、実業家、日本坂道学会(副会長)。福岡県福岡市南区出身、現在は東京都目黒区八雲在住。身長は161cm[1]。株式会社田辺エージェンシー所属。女優の伊佐山ひろ子とは遠戚。 地元の福岡県で保険外交員、喫茶店従業員、ボウリング場支配人など様々な職を経て、ジャズ・ピアニストである山下洋輔らと出会った事などをきっかけに東京へ上京、30歳で芸能界入りをした。 1980年代後半以降、ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑い芸人『ビッグ3』の1人として認められている。ビートたけしを「たけちゃん」と呼び、明石家さんまには呼び捨て、「さんちゃん」「さんまちゃん」「師匠」「出っ歯」と呼んでいる。また、タモリがさんまに呼び捨てや「出っ歯」と呼ぶ事に対して「アンタにはいつも言うてるけど芸能界では先輩やで」などと毎回のように言われている。 1970年代後半頃までは、萩本欽一、ビートたけしと共に、日本のお笑い芸人『ビッグ3』であった。[要出典] また、所ジョージやとんねるずなど見出した1人でもある。 現在では司会業が中心で、中には20年以上続く番組がある。司会者ながら、聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴がある。自ら、「省エネ司会」「エコ司会者」と

.The Japanese “Akashiya Sanma” has a strong desire to create laughter とにかく笑いを創ろうという一念が感じられる日本人「明石家さんま」

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出ました!「明石家 さんま」。ビッグ3の一人ですね。 見てると、やはり凄いものがありますね。「とにかく笑いを創ろう」という一念が感じられます。 笑っていられるというのは楽しいものですよね、やはり。その時だけでも。 凄い日本人のひとり。 「笑い」って創っていくものなんですね。つまり「楽しさ」は創っていくものなんですね。 それを解らせてくれます。 偉い人です。「明石家 さんま」。「覚悟」が出来ていると感じます。 いつまでもご活躍を!凄い日本人「明石家 さんま」。(2009) ■明石家 さんま(あかしや さんま、本名:杉本 高文(すぎもと たかふみ)1955年(昭和30年)7月1日 - )は、日本のお笑いタレント、司会、俳優、歌手、ラジオパーソナリティー。 1980年代後半以降、タモリ、ビートたけしと共に、日本のお笑い芸人BIG3の1人として称される。 和歌山県東牟婁郡古座町(現在の串本町)生まれ、奈良県奈良市育ち。 奈良県立奈良商業高等学校卒業。 芸風 [編集]  デビュー当初は菅原文太のものまねや、当時人気だったプロ野球・阪神タイガース投手の小林繁の形態模写や漫談が主であった。ピンで演じることもあったが、兄弟子の明石家小禄(後に五所の家小禄と改名)とのコンビで、コントスタイルで演じることもあった。 但し、最初は巨人の小林繁として形態模写をしており、江川卓とのトレードで阪神に移籍した際に、この芸を封印したが、トレード直後の阪神タイガースで小林繁の活躍に伴い、関西地区で小林繁の形態模写を熱望されるようになり、本人は渋々再開した所、小林繁と相乗効果で人気を集めるようになった。 現在では司会業が中心で、中には二十年以上続く番組がある。 聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴がある。 トークのテンポに関してはこだわりを持っており、テンポを崩されるとすかさずツッコミやボケを入れる。 例えば、番組中で質問した際に相手が考え込んでしまうと、大抵は「早く言え」等とツッコんだり自らボケを挟んで笑いを取りにかかる。 本人としては、たとえ嘘や適当な答えでも話が広がりさえすればそれでいいので、とにかくパッと早く答えて欲しいと思っている。 また、定番ギャグを持つ若手芸人に対しては「フ

Isao Aoki, a Japanese golfer who was called the Aoki of the world.  世界の青木と言われた日本人ゴルファー「青木 功」。

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Isao Aoki, a Japanese golfer who was called the Aoki of the world. 皆さん、ご存知の 世界の青木と言われた日本人ゴルファー「青木 功」。 いまさら、何おか言わんやというところです。 私のような、ゴルフと縁のない「極小市民」ですら知ってますし、そのプレーやテレビでその人柄に触れて感銘を受けているんです。 老いて益々盛んと言ったところで(意味が少し違うかも)、本当に嬉しいですね。 やはり、「貫く人生」って感動を生みますね。 「人生に失敗はない。誰のどんな人生もそれなりの意味がある」とも言いますが、 思い続け、大いなる結果を残す人生ってのは人びとに感動を与えるものですね。 これからも、ゴルフ人生を続けてください。(2009)   ■青木 功(あおき いさお、1942年8月31日 - )は、千葉県我孫子市出身のプロゴルファーである。日本プロゴルフツアー永久シード保持者。1980年に全米オープンで準優勝を果たすなど、尾崎将司、倉本昌弘、中嶋常幸と並び称される日本を代表する名ゴルファーの一人である。 人物像 気さくで開けっ広げな性格で知られる。米国ツアー参戦後も英語が上手く話せないながら、笑顔やボディランゲージを含めて色々な選手らにどんどん話しかけ、多くの人々と友人になれたという。ゴルフ界以外の友人も多く、ビートたけしのことを「たけしさん」ではなく「ビートさん」と呼ぶ、数少ない人物でもある。 グレグ・ノーマンと親友である。グレグ・ノーマンはゴルフ界でも変人で知られ、人見知りであまり交友関係を持たないのだが、二人は本当に仲が良く、青木が左肘を故障した際には主治医の紹介やリハビリについてのアドバイスを与え、青木が世界ゴルフ殿堂入りした際にはプレゼンターを務めた(ゴルフ解説者の戸張捷が実際に見たといって語っていたところによると、二人は会話の際、青木は日本語で、グレグは英語で普通に喋るのだが、問題なく意思の疎通が出来るのだという。戸張曰く「僕の理解の外です」とのこと)。 口調はべらんめぇ調で、一時期の口癖は「しゃんめえじゃんよ~」(仕方がない、の意)。 プロテストの受験費用は競輪で稼いだ。 ラウンド解説をしていた青木功プロも、感極まって涙を流していたね。なんか、かつてメジャートーナメントでこれほど心が痛むというか、胸を

“Naomi Uemura,” a Japanese who made a leap with an inferiority complex as a springboard. 劣等感をバネに飛躍した日本人「植村直己」

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“Naomi Uemura,” a Japanese who made a leap with an inferiority complex as a springboard. 劣等感をバネに飛躍した_日本人_「植村直己」。 登山家として日本のみでなく、世界にその名を知られた「植村直己」。 私は彼の業績に対して、勿論、敬意を称するところですが、人に知られた彼の性格に特に興味を抱いています。彼の「内攻的」な性格、「内向的」ではなく「内攻的」に変化させた「臆病」「慎重」と言った、通常はマイナス面がクローズアップされる性格が、ひとつの目標を持つ事により、ここまで大きな業績をもたらすのかと言う驚きがあります。 私も同じような性格を持っています。よくあるように、自殺を考えるほどに悩んだりしたことはありませんが、臆病な自分は私の人生において、かなり足を引っ張って来ました。 それを考える時、「植村直己」の偉大さが良くわかります。 早くに旅立たれて残念ですが、彼は多くの人に「感動」を与えた人生でした。 ありがとうございました。(2009) ■植村 直己(うえむら なおみ、1941年(昭和16年)2月12日 - 1984年(昭和59年)2月13日頃(遺体が未発見のため詳細は不明))は、日本の男性登山家・冒険家。 兵庫県出身。 1984年に国民栄誉賞を受賞。 性格 植村家は代々農家で、直己の祖父は損得・金勘定抜きで困っている人を助ける性分だった。 直己もこの祖父の血を引いており、登山隊に加わるときにはトップに立ちたいという想いはあっても、自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場に立った。高校時代は学校の池の鯉を友人と焼いて食べるなど、いたずら好きな少年だったが、ガキ大将的なところは無く、成績も平凡で目立たず地味な存在だったという。 明治大学山岳部時代にはコロコロとしょっちゅう転ぶことからドングリとあだ名され、入部当時は馬鹿にされていたが、少しでも同期の連中と肩を並べたいと密かに日本の山岳行を繰り返し、その陰の努力が実ってサブリーダーにまでなっている。 植村は数々の冒険の成功から大胆不敵な面がクローズアップされているが、実際には人一倍臆病な性格で、十分な計画と準備を経て必ず成功するという目算無しには決して実行しなかった。体力以外に取り立てて優れている面があるわ

The "irresponsible man" who took the world by storm, that is, the Japanese "Ueki Hitoshi" who brought laughter by satirizing Japan. 日本を風刺して笑いをもたらした日本人「植木等」

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The "irresponsible man" who took the world by storm, that is, the Japanese "Ueki Hitoshi" who brought laughter by satirizing Japan. 一世を風靡した「無責任男」すなわち、日本を風刺して笑いをもたらした日本人「植木等」。彼の素顔と一致しなくてもあたりまえだが、面白いですよね植木等の無責任男。 私も結構「無責任男」の映画観てました。 植木等がお寺の倅だってことも知ってました。それがまた、面白いと思わせる要素にもなってたのかな。 「スーダラ節」に表現されたものは高度経済成長期の日本を風刺した、ある意味気楽な時代のひとこまですね。今はそんな気楽な事を言ってられる時代じゃないですが。懐かしいですね。(2009)   ■植木 等(うえき ひとし、1926年12月25日(戸籍上は1927年2月25日) - 2007年3月27日)は、日本の俳優、コメディアン、歌手、ギタリストである。高度経済成長時代の日本を代表するコメディアンとして1960年代に一世を風靡して、数々のヒットギャグ、ヒット曲を放った。仲間内での愛称は植木屋、植木やん。 長男は作曲家の比呂公一。 自身の性格 自他共に認める真面目な性格で、中尾ミエが「毎日同じおかずでも不満を言わないくらい」と例えるほどであったという。『植木等デラックス』ではゲストのさだまさしが、「無責任男」を「植木さんが無理矢理お作りになったキャラクター」と述べたところ、植木は「そうなんだよ、世間はあれが地だと思っているんだよ」と語っている。 「スーダラ節」の楽譜を渡された時には、「この曲を歌うと自分の人生が変わってしまうのでは」と悩んだ。父親に相談すると「人類が生きているかぎり、このわかっちゃいるけどやめられないという生活はなくならない。これは親鸞上人の教えに通じている。そういうものを真理というんだ。上出来だ。がんばってこい」と諭され、彼は歌うことを決意した。 ただし、交友があった小林信彦による評伝『植木等と藤山寛美』によると、あの独特の高笑いは「植木本来のモノ」であったという。また、生真面目ながらも独特の「フラ」があり、日常の座談も「無責任男とは別種の、おかしさ」があったという。

Yuzo Kayama, a Japanese who is famous as an eternal young general. 永遠の若大将として名を馳せる日本人「加山雄三」

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Yuzo Kayama, a Japanese who is famous as an eternal young general. 永遠の若大将として名を馳せる日本人「加山雄三」。 年を重ねてもほんとに元気。素晴らしいですね。彼も世界に誇れる日本人の一人だと思ってます。彼の歌を聴いていると元気がでますよ。 それにしても、羨ましい才能ですね。色んな才能が花開いていて、傍から見れば、やる事為す事上手く言ってる感じで。 何で、こんなに違うんだろうとか思ってしまいます。 ですが、彼の貧乏物語も結構流布されているようです。 大変な借金を返したという話も有名ですよね。 彼が今あるのも、彼の努力と彼の守護霊(?)たちの働きでしょうね。 私は、真面目に、そう思います。(2009) ■加山 雄三(かやま ゆうぞう、1937年(昭和12年)4月11日 - )は、日本の俳優、シンガーソングライター、タレント、作曲家、ギタリスト、ピアニスト、画家。神奈川県横浜市出身(育ちは茅ヶ崎市)。本名・池端 直亮(いけはた なおあき)。ニックネームは若大将。作曲家としてのペンネームは弾厚作。血液型A型。 父親は俳優の上原謙(池端清亮)、母は女優の小桜葉子(岩倉具視のひ孫)。妻は元女優の松本めぐみ、長男はコンピュータグラフィックの会社を経営する池端信宏、次男は俳優の山下徹大(てつお)、長女はタレント・料理研究家の梓真悠子、次女は女優の池端えみ。 逸話       母方の高祖父は、政治家の岩倉具視である。 中学時代にカヌーを造って以来大小10隻以上の船も設計しており、光進丸という自ら設計した全長30メートルを超える船を所有している。自ら『光進丸』という曲も作るほど、愛着が伺える。現在の船は3代目で、建造費用は5億円と言われている。加山は小型船舶免許や5級海技士免許を所持しており、「海の若大将」では初代光進丸が劇中に登場する。 慶應義塾大学在学中にスキーで国民体育大会に出場したことがある。スキューバダイビング等のマリンスポーツも楽しむ。 運動神経万能だが、野球は不得意とし、そのため『若大将シリーズ』でも野球をする映画はなかったという。 映画『エレキの若大将』劇中で『君といつまでも』を歌うシーンについて、あまりに現実離れしたあり得ない展開であることを加山が指摘したが、「映画なんだからいいんだ」とスタッ

Momoe Yamaguchi, a Japanese singer who expresses the kindness of Japanese women.  日本女性のやさしさを表現した日本人歌手 「山口百恵」。

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Momoe Yamaguchi, a Japanese singer who expresses the kindness of Japanese women.    日本女性のやさしさを表現した日本人歌手「山口百恵」。 私も、彼女の歌は良く耳にしました。好きでもあったんですが、歌がヒットして、テレビ番組その他で随分に彼女の歌が流れました。 「山口百恵」という名前は今でも伝説的なスターの名前として、人びとの脳裏の内に、日本の現代史のなかに留まっていますね。 彼女の場合、その引き際の良さというか、人生の歩み方が、日本人の気質にあったという面もあり、今でも熱烈な隠れファンを持っています。 歌の内容も、当時の若者を惹きつけるに充分なものがありましたし、多くの日本人の琴線に触れる歌もありましたし、ルックスそのものが、万人に愛される要素を含んでおりました。 多くの点で、別な観点から「美空ひばり」に匹敵する国民的な歌手であつたとも言えるのではないでしょうか。(2009) ■山口 百恵(やまぐち ももえ、本名:三浦 百惠(みうら ももえ。旧姓:山口 やまぐち)、1959年1月17日 - )は、日本の元歌手・女優。東京都渋谷区恵比寿出身だが、幼少時を神奈川県横浜市瀬谷区、横須賀市で過ごした。血液型はA型。横須賀市立不入斗中学校卒業。日出女子学園高等学校(現日出高等学校)卒業。 配偶者は、俳優の三浦友和(1980年11月19日結婚)、現在は東京都国立市在住、二男あり。長男はロックバンドPeaky SALTのボーカル&ギター担当の「ユウ」(三浦祐太朗)。 活動時の所属事務所はホリプロダクション(現ホリプロ)、レコード会社はCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に所属。 引退後 引退後も常にマスコミやファンからの注目を集めているが、一貫して芸能界とは距離を置いている。ただし作詞家として活動したことがあり、1982年にアン・ルイスに提供した「ラ・セゾン」がヒットしている。 私生活では2人の息子をもうけた。私生活に執拗に迫るマスコミと小競り合いを起こしたこともある。また三浦夫妻宅に不審者が押し入る事件も発生したが、大事もなく解決している。友和によれば百恵は、プライバシーが脅かされる生活に「私は、これ以上芸能界にいたことを後悔したくない」と漏らしたという。長男の通園に備えて

A Japanese model "Ninomiya Sontoku"    日本人の鑑「二宮尊徳」

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私は、高校の時、岩波文庫の「二宮翁夜話」に出会い感銘を受けた。それ以来、日本人の中で、 一番誇るべき人だと思ってきた。小さい頃見た、学校の門の所で薪を背負って本を読む通称「二宮金次郎」の姿は未だに眼に焼き付いている。 ただ、彼の姿を見て、私も「勤勉」を志したという訳ではない。私は、楽な道を進もうとして来た横着者の一人だ。その私が、何故か「二宮尊徳」に感服しているのである。理屈ではない、心がただただ彼に屈しているのだ。憧れがあるのかも知れない。自分にはなれないが、理想的な、あるべき人間の姿のような気がする。(2009) ■二宮 尊徳(にのみや そんとく、 天明 7年 7月23日 ( 1787年 9月4日 ) - 安政 3年 10月20日 ( 1856年 11月17日 ))は日本の 江戸時代 後期に「 報徳思想 」を唱えて、「 報徳仕法 」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家。 通称 は金次郎(正しい表記は「金治郎」)。 諱 の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓む。                   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 彼に反体制の心はない。与えられた環境の中で、目標を掲げ、邁進した。 これなんだろうか。人を惹きつけて止まない魅力は。ただ我武者羅に生きたというのではなく、合理的な予測をもとに多くのひとを導いてきた。 GHQのインボーデン少佐に「二宮尊徳翁は、日本のアブラハム・リンカーンである。自由と民主主義を日本で初めて実践した人物である」と絶賛されたという話は素直に頷ける。 私としては、合理的な「目標」を掲げて邁進するという姿勢を参考にしたい。彼からだけの学びではないが、人生を面白く、有意義に過ごすには、やはり大小に関わらず「目標」を設定して歩まねば。(2009)

Samurai Tasty "Ichiro"  武士のたしなみ   「イチロー」

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「いちろー」という、極ありふれた名前が「イチロー」となると、つまり、あの「イチロー」です。 日本国民で「イチロー」を知らない人は珍しいと思われる。そして、「イチロー」をあまり好まないという人も珍しいと思われる。目標を掲げ(恐らく、彼なりのものがあるはず)、淡々と歩む姿は、先の「二宮尊徳」のようでもある。彼もまた、合理的な考えをもとに、切磋琢磨するのが身についた性のようである。 私は特に野球が好きと言うわけではないが、「イチロー」の「野球道」のような雰囲気が好きである。「イチロー」に宮本武蔵のような武士の匂いを嗅ぐ人は多いのではないかと思う。 武士のようなたしなみをもった大リーガー「イチロー」は、今日も淡々と「試合する」。(2009) ■イチロー(本名:鈴木 一朗〈すずき いちろう〉、 1973年 10月22日 - )は、 シアトル・マリナーズ に所属する プロ野球選手 。 ポジション は 外野手 (主に 右翼手 )。 血液型 B型 。 日本プロ野球 と メジャーリーグ のシーズン最多安打記録を保持しており、驚異的に ヒット を量産することから「安打製造機」と称される。                             出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 彼も人間である。いつまでも今の状況や状態を永らえる訳には行かない。その時、「イチロー」は何を見るのか。非常に興味がある。日本人的魂の行方に注目している。(2009)

Pioneer of right brain development "Prince Shotoku"                右脳開発の先駆者「聖徳太子」

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「聖徳太子」は10人が同時に話していることを聞き分けたと言われている。これはまさしく右脳が働いている状態である。彼は日本に於ける右脳開発の第一人者であったと思われる。いま、「右脳開発」については色々な情報が飛び交い、その方法論も多彩である。私もかなり興味を持っていて、手掛けてみた事もあるが、なかなか上手く行かなかった。つまり、効果が見られるところまでの努力が継続できないのである。俗にいう「三日坊主」である。 世の中には、殊更「右脳」の働きがどうのこうのと意識せずして、その効果を発揮している、いわゆる 「頭が良い人」は幾らもいると思われる。 私にも、ひとつの拙い経験がある。それは、高校1年の時のことである。物理の授業に於いて「衝突」の問題を考えていた時のことである。2個の丸い球がぶつかった時の状況を数式で表すというものである。私は「アルキメデスの原理」の誕生の逸話を思っていた。常に考え続けることで、解決策を思いつくのではないかと考えた。2、3日考え続ければ、必ず何かしら手ごたえがあるに違いないと思って始めた。道を歩いている時、食事している時、入浴している時、いつも頭の中で考え続けた。 結果は早く出た。1日も掛らなかったと思う。頭の中にはっきりと、「衝突」の状況がイメージとして浮かび上がったのである。通常の生活意識とは別に、脳のどこからかそのイメージが湧きあがっており、 数式と結びついているのである。私にとってこの時点では「衝突」は完全に理解出来ていた。 先生が教壇で問題の解を説明されている時、細かなミスも、私には解っていた。この小さなミスについて、先生に質して置けばよかったと、今でも悔やんでいる。 私は、この方法を使えばどんな難問でも解決できるのではないかと考えたが、いささか考えが甘かった。他の問題で挑戦してみたが上手く行かなかった。つまり、私はこの時だけ「天才」だったのだ。 ただ、この経験から、脳は上手く使えば大変な力が発揮できるというのは解っている。解っているけど 上手く使えないという現実があるのだが。だから「天才」が世の中に溢れていても不思議はないと思っている。上手く使えるひとが多くいても不思議はない。(2009) ■聖徳太子(しょうとくたいし、 敏達天皇 3年 1月1日 ( 574年 2月7日 ) - 推古天皇 30年 2月22日 ( 622年 4月8日 )(

"Yoshida Shoin" who fulfilled the role of life  命の役を遂げた「吉田松陰」

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ある種の人びとは運命的な役割を背負って生まれて来ると言うことを、私は信じている。 「吉田松陰」という人もまさしく運命の人に違いない。明治維新の原動力となった人材を、若くして育て、 若くして死したこの人は、日本の歴史を影から動かそうとする裏の軍団のエースだったに違いない。 私が言っているのは、いわゆる「霊界」と呼ばれている肉体を持たない人びとの世界の事だ。 「霊界」といわれている世界については、諸説あり、人によりその捉え方は多種多様かもしれない。 私としては、肉体を失った世界が、肉体とともにあった世界と全く無縁であるとは考えない。 状態は変化しても、なんらかの繋がりは残るであろうし、もともと、繋がりを持って生まれているはずだと思う。日本という国の変化に非常に関心のある「魂」の集まりがあれば、何らかの対策をとっても当然 のはず。そうした人達がエースとして送り込んだのが「吉田松陰」ではなかったか。 彼を初めとする多くの若者が、命という肉体条件を超えて、志(こころざし)により、あの時代を駆け抜けたという事実はやはり只事ではない。「吉田松陰」はトップランナーだったのだ。 私のようなぐうたら人間でも、そんなことを考える。(2009) ■吉田 松陰/吉田 矩方(よしだ しょういん/よしだ のりかた)は、 日本 の 武士 ( 長州藩 士)、 思想家 、 教育者 、 兵学者 。一般的に 明治維新 の精神的 指導者 ・理論者として名が挙げられることが多い。贈 正四位 。 文政13年(1830年)8月4日、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年( 1834年 )に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の 養子 となるが、天保6年( 1835年 )に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた 松下村塾 で指導を受けた。 松下村塾において松陰は長州藩の下級武士である 久坂玄瑞 や 伊藤博文 などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる 安政5年(1858年)、幕府が無勅許で 日米修好通商条約 を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である 間部詮勝 の 暗殺 を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、 高杉晋作 や桂小五

"Ken Morita" who made life interesting   生きることを面白くした「森田健」

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ただ純粋に興味あることを探求するという「不思議研究所所長 森田健」。 ある日のこと、変なFAXが会社に送られてきた。 最初は奇妙なこのFAXを無視しようとしたが、名前の「森田健」に引っ掛かっていた。何処かでこの名前に遭ったことがあるなと感じていた。 そこで返信FAKし、この人を詳しく知る事ができた。 実は以前に 船井幸雄 さんの著書で目にしたことのある名前だった。それから暫く雑誌を読むようになり、グッズも購入したり、結構のめり込んだ。今は興味なくはないが、ちょっと離れている。 彼の研究している中国の「生まれ変わりの村」の著書も読んでみたいなとも思っている。 私は彼の生きるスタンスが絶品だと感じている。フリーだな~という羨ましさである。 生きるってことを純粋に多様化した人ですね。これからもこの生き方続けてくださいね~と言いたいのです。私も幾らか真似したいです。(2009) ■森田 健(もりた けん、 1951年 10月26日 - )は、コンピュータソフト会社の経営者、不思議現象の研究者。 不思議研究所 を設立し、主に中国における不思議現象の取材活動を行っている。また、日本で 六爻占術 を提唱している。        出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 これからも時々彼にアクセスして刺激を受けながら、人生を生きていこうかな。(2009)

Japanese pilot Yukio Funai                日本の水先案内人「船井幸雄」

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私は「船井幸雄」という人を、詳しく知っている訳でもない。何冊か著書を読んだかもねと言う位だ。 しかし、それで解った事。彼は元々経営コンサルタントであり、そのクライアントの業績アップを必死に考えているうちに、今の日本にとって必要な舵取り役の立場に立たされてしまった人であろう人だということだ。彼はその立場から、多くの世に埋もれ易い人たちを発掘し、世の中に放つ役割を、彼の好奇心とともにこなし続けている。それに連れて「船井幸雄ワールド」が形成されている。 今からの日本にとって、真に必要な人たちが結集しつつあることが解ります。 「船井幸雄」総監督のもとに、各分野のリーダーが顔を揃えつつあります。 彼の考え方のひとつに、「リストラは好ましくない」というのがあります。 リストラせずにやって行く道を探すと言うことの大切さを訴えています。(2009) ■船井 幸雄(ふない ゆきお、 1933年 1月10日 - )は、 大阪府 出身の 経営コンサルタント 。1956年に 京都大学 農学部 農林経済学科を卒業。 株式会社 船井総合研究所 (創業時は日本マーケティングセンター)の創業者。株式会社本物研究所、船井メディア、船井財産コンサルタンツ、船井本社代表取締役会長。当初は13人で日本マネジメント協会から独立した。 経営コンサルティングの手法としては『地域一番店戦略』が有名。これは、1970年代に 渥美俊一 が唱えた『チェーンストア理論』の対局を為す小売戦略として、多くの地域小売業者に支持された。 丸井 会長の青井忠雄、 伊勢丹 出身で 松屋 と 東武百貨店 を再建した 山中鏆 と昵懇で、三人会と称する会合を定期的に開いていた。東武百貨店が東洋一の百貨店を池袋にリニューアルオープンした際の戦略も、地域一番店戦略がベースとなっている。 そごう も影響を受けた。       出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「地域一番店」を目指すという、彼の考え方は素晴らしい。(2009)

``Sojiro'' that feels like this is ``Nihon''             これが「にほん」かなって感じの「宗次郎」

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私は「宗次郎」の曲が好きで、パソコンに入れて、時々聴いてます。「オカリナ」の音色が何とも言えず気になるんです。「気になる」って感覚、解って貰えますか。要するに好きなだけですが。「宗次郎」の曲を多く集めてる訳でもなく、図書館で借りてきたCDで楽しんでいます。 最初はテレビから流れる「宗次郎」の曲に感銘して、すぐ図書館に行ってみたんです。 イイですよね!バックグラウンドミュージックとしても最高ですよね。 「オカリナ」なんですが。ちょっと説明しますと、「オカリナ(オカリーナ、ocarina)は 気鳴楽器 の一つであるが、 管楽器 とは発音原理を異にする特徴的な楽器である。イタリアや日本では涙滴状の形のものが最も一般的。世界的に見れば丸形や角形の陶器製の楽器もオカリナとよばれ、数多く存在している。素朴でまろやかな音色が特徴。」ということです。(2009) ■宗次郎(そうじろう、本名:野村 宗次郎(のむら そうじろう)、 1954年 10月10日 - )は、 オカリナ 奏者。 群馬県 館林市 出身。使用しているオカリナは全て自身による手作りである。デビュー前からオカリナ製作を始め、現在までに製作したオカリナは数万本におよび、その中で実際に演奏に使用するのは10数本といわれる。 1980年 以降、 栃木県 にある廃校となった小学校で生活していたが、現在は 茨城県 常陸大宮市 (旧緒川村)の山村で暮らす。                 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「にほん」を表現する人として、素晴らしい存在感のある人ではないでしょうか。 私はこれからずっと彼の音楽で癒されると思います。(2009)

A Japanese person who suits the world ``Sadaharu Oh''             世界が似合う日本人「王 貞治」

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ご存知「ワンちゃん」こと「王 貞治」。正確には日本人では無いかも知れませんが、 誰ひとり日本人を疑うひとのいない「日本人」。「王 貞治」。 私達「団塊の世代」にとっては、「ON」というのは何かしら特別なものがあるような気がします。 つまり人生という経験のなかで、その一部としての経験そのもののような意味合いがあるんだと思います、 それにしても「王 貞治」さんって、律儀な人ですよね。監督を退いたあとも福岡で色々と地域のために働いておられますよね。地域の経済界も、改めて応援体制を造り変えたということですね。 「王貞治」は永遠にヒーロー的日本人ですね。(2009) ■王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzhì、1940年5月20日 - )は、日本生まれ・台湾籍の元プロ野球選手、監督。 日本国民栄誉賞の初受賞者。現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、読売巨人軍OB会会長。 現役時代のニックネームは「ワンちゃん」。 「世界の本塁打王」、「世界の王」とも呼ばれる。 また現役時代にONコンビとして共に活躍した長嶋茂雄が「栄光の背番号3」と称されたのに対し、「栄光のビッグ1」と称されている。 左投左打で内野手(一塁手)であった。現役引退後は巨人で助監督と監督、その後解説者、ダイエー・ソフトバンクの監督を歴任した。 2008年シーズン終了と同時に福岡ソフトバンクホークス監督を退任し、同球団取締役最高顧問に就任。 2009年1月1日より取締役会長に昇進。日本プロ野球組織(NPB)コミッショナー特別顧問。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2009)

“Ryoma Sakamoto” wants to imitate a global perspective   グローバルな視点を真似したい「坂本龍馬」

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もう有名を通り越している感があります「坂本龍馬」。先般、「坂本龍馬フリーメーソン説」をある本にて知りました。かなり信憑性が高いように思います。あの時代に大活躍できた背景のひとつとして納得できるんではないでしょうか。長州と薩摩が手を結んだ裏の事情に通じている様な気がします。 真偽のほどははっきりしないまでも、やはり「坂本龍馬」の心意気ってすごいですね。 人生を面白く生きようって思いが溢れているようです。「日本」という意識を超えた世界の中の自分はどう生きてやろうかって感じが伝わってきますよ。彼に関する記録や小説などから。 以前、長崎のグラバー邸で見つかった、二階にあった隠れ部屋の階段を見てきました。 「坂本龍馬」も一度はあの部屋にお世話になったことがあるんでしょうね。 [坂本龍馬は」いつも面白く自分の力を発揮できるところはないか探していたような気がします。(2009) ■坂本 龍馬(さかもと りょうま、 天保 6年 11月15日( 1836年 1月3日 ) - 慶応 3年 11月15日 ( 1867年 12月10日 )は、 幕末 の 日本 の 政治家 ・ 実業家 。 土佐藩 脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた 亀山社中 ・ 海援隊 の結成、 薩長連合 の斡旋、 大政奉還 の成立に尽力するなど、 志士 として活動した。贈官位、正四位。 司馬遼太郎 の小説『 竜馬がゆく 』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。また、その事跡についてはさまざまな論議がある。      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 私も「坂本龍馬」の視点を真似したい。やはり、生きているうちは、あまり縮こまらないように生きたいですね。特に、私のような気の小さい「極小市民」はそう思います。(2009)

Toshitaka Mochizuki, a person who gives people hope                 人びとに希望を与える人「望月 俊孝」

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私は「宝地図」って素晴らしいって思ってます。ただ、「私は宝地図によってこうなりました」って報告は出来ません。なんにもないからです。本当に本気で実践は出来てないんです。私に身につくものって、殆どありません。劇的な変化なんて無縁です。結局そういう人間なんですかね。いいことを長続きさせる能力もなく、ある程度やっても納得の結果が付いてこない。いつも変らぬ平凡な私がいます。 だけど、良いものは良いと言いたいです。なんたって良いですよね。希望が湧いてきます。 「宝地図」は。 この「宝地図」を広めて居られる「望月俊孝」という人がまた素晴らしい人ですね。 その経歴を聴いて感銘です。 「宝地図」で人生を切り開いた人はかなり居られるようです。 「望月俊孝」さん頑張ってください!(2009) ■望月 俊孝(もちづき としたか、 1957年 - )は、 ヴォルテックス/レイキ・ヒーリング・システム の設立者。主に レイキ (健康法)や 宝地図 (夢実現)、 フォトリーディング (速読系)などのセミナー・講演会を開催。 レイキは1990年代前半から取り組み、日本で普及するようになった立役者の一人。 宝地図 という夢実現・願望達成法を提唱。     出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 私ももっともっと意欲的な人生を歩まなくっちゃ!(2009)

Sincere person "Takamori Saigo"     至誠の人「西郷隆盛」

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私は、以前、ある本にて「西郷隆盛」の霊訓といったような内容の話を読んだことがある。 その本が書かれた時点で彼の霊が語ったということになるのであろうが、それがどうのこうのといったことではなく、伝わってきたのは「西郷隆盛」の「誠」である。彼の人生の結果に付いてではなく、彼の人生の動機について思う時、そこには「誠」しかなかったような気がする。 私のような「極小市民」が「大西郷」について書くのも面映いが、この偉大なひとの心の「かけら」でも学べたらと思います。 日本人でその名前を聞いたことがないという人は、まずいないと思われる「西郷隆盛」。 その風貌とともに愛され続ける「西郷隆盛」。 彼の内面的な観点からもっとマスコミ上でクローズアップされても良いのではないかと思う。(2009) ■西郷 隆盛(さいごう たかもり、本名: 隆永(たかなが)、 文政 10年 12月7日 ( 1828年 1月23日 ) - 明治 10年( 1877年 ) 9月24日 )は、 日本 の 武士 ( 薩摩藩 )、 軍人 、 政治家 。 薩摩藩の盟友 大久保利通 、 長州藩 の 木戸孝允 (桂小五郎)と並び、「 維新の三傑 」と称される。 西郷吉兵衛隆盛の長子。名( 諱 )は 元服 時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。 幼名 は小吉、 通称 は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。 号 は南洲(なんしゅう)。 西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼した。遙拝が終わり、 切腹 の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫び 介錯 した。 享年 51(満49歳没)。    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「大西郷」の死に際の鮮やかさはなんとコメントされるべきなのか。 ただ、唸り、想うのみ。(2009)

Mysterious psychic "Kukai"         不思議な超能力者「空海」

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「空海」すなわち「弘法大師」。「弘法も筆の誤り」という有名な諺がありますね。「猿も木から落ちる」と同じような意味だと思われます。書道の達人と言われている「弘法大師」ですが、小さい頃からやたら名前を聴いてます。家に色付きの焼物の像があって、「お大師さま」という行事があったりしてました。 お参りした人にお菓子などを振舞うという慣わしです。私、いつ行うかは覚えてないんですが、子供の時の楽しみでしたし、祖母が接待していたのを、なんとなく覚えています。私が知らないだけで、未だに続いている風習、行事のようです。 「弘法大師」に関しては、言い伝えの様なものも多いですね。土地の名前の名付け親だったり、温泉の発見者だったり、全国各地に「弘法伝説」みたいなものが残っていますね。小さい時から、「超能力者」というイメージは持っていて、憧れていました。 そのため、「極小市民」のくせに「仙人」のような存在になりたがったりするんですよね。 事実、「弘法大師」こと「空海」は通常の人ではなかったようです。いわゆる「悟り」を開いた存在だったようです。素晴らしいですね。 私は「空海」さんに憧れつつ、この一生を終えるんですね。 それも、「また善きかな」・・・・・・・です。(2009) ■空海(くうかい)は、 平安時代 初期の 僧 。「弘法大師(こうぼうだいし)」の名( 諡号 〈 醍醐天皇 、 921年 贈〉)で知られる、 真言宗 の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお、〈まなとも〉)。 日本天台宗 の開祖 最澄 (伝教大師)とともに、旧来のいわゆる 奈良仏教 から新しい 平安仏教 へと 日本 仏教 が転換していく流れの劈頭に位置し、 中国 から 真言 密教 をもたらした。 能書家 としても知られ、 嵯峨天皇 ・ 橘逸勢 と共に 三筆 のひとりに数えられる。         出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「空海」は洞窟のなかである「発声」により「悟り」を開いたという話を聞いたことがあります。 いま、「超能力開発」も盛んだと思いますが、「聖徳太子」「空海」など、日本の超能力者の系譜みたいなものがあるんでしょうね。(2009)

Straight person "Saneatsu Mushanokoji"     真っ直ぐなひと「武者小路実篤」

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私は、中学生の時、「武者小路実篤」の作品である「馬鹿一」に出会いました。感動しました。 私は「馬鹿一」の様になりたいと思いました。淡々と、ただ淡々とあるべくしてあるという風情の「馬鹿一」のように、周りを気にすることなく、己の信じる道を歩みたいと思いました。 読書感想文にも書きました。相手にされはしませんでした。しかし、私は満足でした。感動は自分のものですから。「武者小路実篤」といえば「友情」あたりが代表作かと思いますが、私はなぜか「馬鹿一」が大好きでした。 「武者小路実篤」は「新しき村」の活動や「仲良きことは善き事かな」(確かこのような言葉だったと思う) の色紙などでよく知られています。 私としては「馬鹿一」を生み出した真っ直ぐな人として尊敬しています。(2009) ■武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、本名同じ、 1885年 5月12日 - 1976年 4月9日 )は、 日本 の 小説家 。 仲間からは「武者」という愛称で呼ばれた。 位階 は 従三位 。 文化勲章 受章。授与された 称号 には 名誉都民 などがある。 日本芸術院 会員。 実篤は、白樺派の思想代名詞的存在であり、 理想主義 ・ 空想社会主義 的行動(前述の村建設など)が現実離れしているとして揶揄の対象とする人もいた。また、上流階級の子弟にありがちな気紛れで無責任とも取れる言動(自ら提唱した新しき村を僅か6年で離村している)も批判された事もある。一般的には、確固たる思想的裏付けが無く、近視眼的な理想主義・現実離れな言動で、軽率であるとの懐疑的な見方が多い。 代表作 『お目出たき人』1911年 『その妹』1915年 『友情』1919年 『幸福者』1919年 『人間万歳』1922年 『或る男』1921年 - 1923年 『真理先生』1949年 - 1950年 など     出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「武者小路実篤」の評価は単純ではないようだが、私は、青春を彼の著作とともに歩んだし、「馬鹿一」に出会えたことで、すごく感謝しています。(2009)

A person who can be absorbed in "Sayuri Yoshinaga" のめり込める偉大な俳優「吉永小百合」

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私が高校生の頃、やはりファンのひとりではありました。「吉永小百合」。ビッグネームです。 「赤胴鈴之助」に出演していたことは、後から知りました。「キューポラのある街 」「 伊豆の踊子 」「 愛と死をみつめて 」の頃ですね。私の青春と重なっています。 「吉永小百合」さんって器用には思えません。ですが、真面目なんだと思います。一所懸命に役になりきろうとする姿勢が感じられます。おめり込む人なんですね。それが出来るんですね。集中力がすごいんですね。 集中し、のめり込むことで結果を残すというノウハウを真似したいです。 本当に日本的な、日本人の女優って感じですね。「日本人だからこそ解るその魅力」ってフレーズが出てきそうです。(2009) ■吉永 小百合(よしなが さゆり、本名:岡田小百合(おかだ さゆり)、 1945年 3月13日 - )は、 東京都 渋谷区 代々木西原町(当時)出身の女優である。そのファンは、「サユリスト」と呼ばれる。 吉田正 (作曲家)の門下生として、数多くの レコード を出している。 サユリスト [ 編集 ] 吉永のファンは「サユリスト」(『小百合』に『~主義者』や『人』を意味する英語の 接尾辞 『-ist』をつけた造語)と言われるが、「サユリスト」を自認する者は邦画ファンや一般大衆はもとより、芸能人や著名人にも幅広く存在している。          出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 自分というものを冷静に捉えられる人のようです。頭の良い人ですね。 これからも、地道な活動を継続されて、元気で頑張って欲しいです。(2009)