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Showing posts from June 11, 2023

A Japanese model "Ninomiya Sontoku"    日本人の鑑「二宮尊徳」

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私は、高校の時、岩波文庫の「二宮翁夜話」に出会い感銘を受けた。それ以来、日本人の中で、 一番誇るべき人だと思ってきた。小さい頃見た、学校の門の所で薪を背負って本を読む通称「二宮金次郎」の姿は未だに眼に焼き付いている。 ただ、彼の姿を見て、私も「勤勉」を志したという訳ではない。私は、楽な道を進もうとして来た横着者の一人だ。その私が、何故か「二宮尊徳」に感服しているのである。理屈ではない、心がただただ彼に屈しているのだ。憧れがあるのかも知れない。自分にはなれないが、理想的な、あるべき人間の姿のような気がする。(2009) ■二宮 尊徳(にのみや そんとく、 天明 7年 7月23日 ( 1787年 9月4日 ) - 安政 3年 10月20日 ( 1856年 11月17日 ))は日本の 江戸時代 後期に「 報徳思想 」を唱えて、「 報徳仕法 」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家。 通称 は金次郎(正しい表記は「金治郎」)。 諱 の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓む。                   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 彼に反体制の心はない。与えられた環境の中で、目標を掲げ、邁進した。 これなんだろうか。人を惹きつけて止まない魅力は。ただ我武者羅に生きたというのではなく、合理的な予測をもとに多くのひとを導いてきた。 GHQのインボーデン少佐に「二宮尊徳翁は、日本のアブラハム・リンカーンである。自由と民主主義を日本で初めて実践した人物である」と絶賛されたという話は素直に頷ける。 私としては、合理的な「目標」を掲げて邁進するという姿勢を参考にしたい。彼からだけの学びではないが、人生を面白く、有意義に過ごすには、やはり大小に関わらず「目標」を設定して歩まねば。(2009)

Samurai Tasty "Ichiro"  武士のたしなみ   「イチロー」

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「いちろー」という、極ありふれた名前が「イチロー」となると、つまり、あの「イチロー」です。 日本国民で「イチロー」を知らない人は珍しいと思われる。そして、「イチロー」をあまり好まないという人も珍しいと思われる。目標を掲げ(恐らく、彼なりのものがあるはず)、淡々と歩む姿は、先の「二宮尊徳」のようでもある。彼もまた、合理的な考えをもとに、切磋琢磨するのが身についた性のようである。 私は特に野球が好きと言うわけではないが、「イチロー」の「野球道」のような雰囲気が好きである。「イチロー」に宮本武蔵のような武士の匂いを嗅ぐ人は多いのではないかと思う。 武士のようなたしなみをもった大リーガー「イチロー」は、今日も淡々と「試合する」。(2009) ■イチロー(本名:鈴木 一朗〈すずき いちろう〉、 1973年 10月22日 - )は、 シアトル・マリナーズ に所属する プロ野球選手 。 ポジション は 外野手 (主に 右翼手 )。 血液型 B型 。 日本プロ野球 と メジャーリーグ のシーズン最多安打記録を保持しており、驚異的に ヒット を量産することから「安打製造機」と称される。                             出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 彼も人間である。いつまでも今の状況や状態を永らえる訳には行かない。その時、「イチロー」は何を見るのか。非常に興味がある。日本人的魂の行方に注目している。(2009)

Pioneer of right brain development "Prince Shotoku"                右脳開発の先駆者「聖徳太子」

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「聖徳太子」は10人が同時に話していることを聞き分けたと言われている。これはまさしく右脳が働いている状態である。彼は日本に於ける右脳開発の第一人者であったと思われる。いま、「右脳開発」については色々な情報が飛び交い、その方法論も多彩である。私もかなり興味を持っていて、手掛けてみた事もあるが、なかなか上手く行かなかった。つまり、効果が見られるところまでの努力が継続できないのである。俗にいう「三日坊主」である。 世の中には、殊更「右脳」の働きがどうのこうのと意識せずして、その効果を発揮している、いわゆる 「頭が良い人」は幾らもいると思われる。 私にも、ひとつの拙い経験がある。それは、高校1年の時のことである。物理の授業に於いて「衝突」の問題を考えていた時のことである。2個の丸い球がぶつかった時の状況を数式で表すというものである。私は「アルキメデスの原理」の誕生の逸話を思っていた。常に考え続けることで、解決策を思いつくのではないかと考えた。2、3日考え続ければ、必ず何かしら手ごたえがあるに違いないと思って始めた。道を歩いている時、食事している時、入浴している時、いつも頭の中で考え続けた。 結果は早く出た。1日も掛らなかったと思う。頭の中にはっきりと、「衝突」の状況がイメージとして浮かび上がったのである。通常の生活意識とは別に、脳のどこからかそのイメージが湧きあがっており、 数式と結びついているのである。私にとってこの時点では「衝突」は完全に理解出来ていた。 先生が教壇で問題の解を説明されている時、細かなミスも、私には解っていた。この小さなミスについて、先生に質して置けばよかったと、今でも悔やんでいる。 私は、この方法を使えばどんな難問でも解決できるのではないかと考えたが、いささか考えが甘かった。他の問題で挑戦してみたが上手く行かなかった。つまり、私はこの時だけ「天才」だったのだ。 ただ、この経験から、脳は上手く使えば大変な力が発揮できるというのは解っている。解っているけど 上手く使えないという現実があるのだが。だから「天才」が世の中に溢れていても不思議はないと思っている。上手く使えるひとが多くいても不思議はない。(2009) ■聖徳太子(しょうとくたいし、 敏達天皇 3年 1月1日 ( 574年 2月7日 ) - 推古天皇 30年 2月22日 ( 622年 4月8日 )(

"Yoshida Shoin" who fulfilled the role of life  命の役を遂げた「吉田松陰」

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ある種の人びとは運命的な役割を背負って生まれて来ると言うことを、私は信じている。 「吉田松陰」という人もまさしく運命の人に違いない。明治維新の原動力となった人材を、若くして育て、 若くして死したこの人は、日本の歴史を影から動かそうとする裏の軍団のエースだったに違いない。 私が言っているのは、いわゆる「霊界」と呼ばれている肉体を持たない人びとの世界の事だ。 「霊界」といわれている世界については、諸説あり、人によりその捉え方は多種多様かもしれない。 私としては、肉体を失った世界が、肉体とともにあった世界と全く無縁であるとは考えない。 状態は変化しても、なんらかの繋がりは残るであろうし、もともと、繋がりを持って生まれているはずだと思う。日本という国の変化に非常に関心のある「魂」の集まりがあれば、何らかの対策をとっても当然 のはず。そうした人達がエースとして送り込んだのが「吉田松陰」ではなかったか。 彼を初めとする多くの若者が、命という肉体条件を超えて、志(こころざし)により、あの時代を駆け抜けたという事実はやはり只事ではない。「吉田松陰」はトップランナーだったのだ。 私のようなぐうたら人間でも、そんなことを考える。(2009) ■吉田 松陰/吉田 矩方(よしだ しょういん/よしだ のりかた)は、 日本 の 武士 ( 長州藩 士)、 思想家 、 教育者 、 兵学者 。一般的に 明治維新 の精神的 指導者 ・理論者として名が挙げられることが多い。贈 正四位 。 文政13年(1830年)8月4日、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年( 1834年 )に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の 養子 となるが、天保6年( 1835年 )に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた 松下村塾 で指導を受けた。 松下村塾において松陰は長州藩の下級武士である 久坂玄瑞 や 伊藤博文 などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる 安政5年(1858年)、幕府が無勅許で 日米修好通商条約 を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である 間部詮勝 の 暗殺 を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、 高杉晋作 や桂小五