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Showing posts from May, 2023

Too Hurry "Oda Nobunaga"        急ぎすぎたか「織田信長」         

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さきほど、「日本歴史占い」というのがある占いなどのサイトで、性、生年月日を入力して占ってみたら、24人の歴史上の人物のうち、「織田信長」という答えが出てきた。 「旧を破壊し新を構築する変革者」だそうである。  「変革者たる理由はふたつ。第一は、不要不急のものを切って捨てられる合理主義者であること。第二に、新奇なものに対する情報収集能力の高さ。あなたがリーダーになったとき、周囲の緊張は並大抵ではありません。反面、命令・指示を受ける人間たちは、能力以上の力を出さざるを得ず、自ら成長する結果を導きます。秀吉のような有能者が発掘されるのも理解できます。何事かを変えていこうとすれば敵も増えるので、覚悟してください。」ということです。 「ほととぎす」で表現される3人、すなわち「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」のうち、確かに、私が一番好きなのは「織田信長」なのだが。「鳴かぬなら、殺してしまえ、ほととぎす」とまで言われると,少し違うのではと思う。 戦国時代の異様な状況のなかで、何をか謂わんという感じだが、強豪ひしめく中において、「織田信長」は早く走りすぎたような気がする。その性格が災いしたという結果論には、それなりの信憑性はあるようだ。 私の人生が彼のような人生に似ているかといえば、ちと違う、と言おう。他の2人ような性格を多分に持っている。しかし、内に隠れた部分で、占いの表現するところのものは、確実にある。心して、残りの人生を歩むもよきかな。(2009) ■織田 信長(おだ のぶなが)は、 日本 の 戦国時代 から 安土桃山時代 にかけて、世に多大な影響を残した 武将 ・ 戦国大名 ・ 政治家 である。 当時の常識や権力に囚われず、新しい考え方や文化を積極的に取り入れる見識の広さ、合理性と冷徹さを兼ね備えた知性によって、統一者のいなかった政治的混沌を収集に向かわせた人物である。その事業は大方向を示したところで重臣の一人・ 明智光秀 の裏切りに遭い、自刃に追い込まれたことによって頓挫した。しかし、政権の実質的後継者となった 羽柴秀吉 が、信長の築いた足場をもとに 天下統一 を進め、ついには成し遂げることとなったことから、秀吉が継ぎ、 徳川家康 が完成させる形となった 日本 近世 の形成事業の創始と言うべき位置づけにあった政治家である。           出典: フリー百科事典『ウ

Human headlight "Kaoru Nakamaru"     人類のヘッドライト「中丸 薫」    

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 私は「中丸薫」の著作を1冊読んだだけだが、2012年の地球的なイベントについては関心があり、「中丸薫」の活動には敬意を持っている。「極小市民」の私だが、やはり人間として生まれている以上、どうしても幾らかは人類や地球といったテーマに関心が行く。2012年はすぐ目の前だ。近々にこんな大きな事象が起こるとはなかなか考え難いが、起こるときは起こるんだという意識は捨てがたい。 私も肉体を持っていきる期間がどの位あるのかわからないが、このような事から全く目を背けるということは絶対に避けたい。日々の生活意識の中で埋没することなく、関心を持ち続けて行きたい。(2009) ■中丸 薫(なかまる かおる、女性、 1937年 5月23日  - )は 山梨県 出身の国際政治評論家。米国財団法人国際問題研究所代表。「太陽の会」総裁。 明治天皇 の 孫 と主張。 中丸がめざすのは「人間復興を通した世界平和」であり、「富や名声、権力が人間を幸せにするのではなく、本当の幸せは愛、調和、安らぎに満たされた心から生まれる。市民からVIPまで、一人一人の心の内側を平和にすることが世界平和を実現する」と訴える。「太陽の会」という名称も、イソップ物語の「 北風と太陽 」にちなんで命名。中丸は著書の中で、「太陽はどんな人をも温かい光で包み込む。私たちもそのような心で生きなければいけない」という主旨のことを度々書いている。            出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 色々と障壁もあるでしょうが、「中丸薫」さん、頑張ってください!(2009)

Seicho Matsumoto, a master of genius social reasoning                天才的社会派推理の巨匠「松本清張」

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私はいつも言ってますが、「極小市民」なもんで、少しずつ勝手に語ってるだけでたいした了見もありやしません。「松本清張」の本も幾らか読みましたが、ただそれだけです。だけど、思います。 凄い人だなと。想像力がハンパじゃないですよ。外交官の家庭なんぞも、活写出来るんです。 「松本清張」がいたからこそ、推理小説が一般的に読まれるようなり、また多くの人材を輩出するきっかけになったといえるでしょう。最近は忙しさにかまけて読まなくなった小説だが、また折をみて読みたいと思います。(2009) ■松本 清張(まつもと せいちょう、男性、 1909年 12月21日 - 1992年 8月4日 )は、 日本 の 小説家 。“せいちょう”はペンネームで、本名は、“きよはる”と読む。 一般的には 福岡県 企救郡 板櫃村 (現在の 北九州市 小倉北区 )出身とされるが、 広島県 広島市 で生まれ、幼児期から児童期は 山口県 下関市 で育ち、小倉に定住したのは小学校5年生、10歳、11歳から [1] [2] [3] [4] 。 姉が2人いたが夭折しその後1人っ子として育つ。 実父が定職を持たず生家が貧しかったために 高等小学校 卒業後、川北電気で給仕の職に、その後、高崎印刷所で石版画工になる。 文学雑誌を耽読していたが、友人が読んでいた「戦旗」などの文芸雑誌を読んでいたため思想犯の嫌疑で検挙されたことがある。 1939年朝日新聞広告部に意匠係として勤める。 1950年 、勤務中に書いた処女作「 西郷札 」が『 週刊朝日 』の「百万人の小説」に入選し、 1953年 に「 或る『小倉日記』伝 」が第28回 芥川賞 を受賞。以後作家活動に専念する。 1958年 に発表した 推理小説 『 点と線 』『 眼の壁 』の2長編はベストセラーとなる。 犯罪 の動機を重視した「 社会派推理小説 」とよばれる作品は「清張ブーム」を引き起こし、推理小説を大衆に開放することに成功した。 このほか『かげろう絵図』などの歴史物を手がけていたが、『古代史擬』などで 古代史 に興味を示し『火の路』『眩人』に結実。また、『 昭和史発掘 』『日本の黒い霧』などのノンフィクションで現実世界にも目を向け、多芸多才な作家活動をおこなった。ほかの作品に『 砂の器 』や『Dの複合』、自身が代表作という『 ゼロの焦点 』など。 日本共産党 の熱

Hibari Misora, a star carrying the country on her back 国を背負ったスター「美空ひばり」 

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  誰でも知ってる「美空ひばり」。 と言っても、最近の人は知らない人もいるかも。しかし、彼女ほど日本という国と引っ付いたスターはいないのではないでしょうか。 私は戦後の生まれですが、小さい頃から「美空ひばり」の物語はよく目にしたように思います。彼女が横浜の魚屋さんの生まれで、幼い頃から歌が上手でという、あのストーリーです。 そして、彼女の歌とともに日本という国は戦後の復興を成し遂げたということです。恐らく伝説として永遠に語り継がれるであろうと思われます。 私も思います。天才です。彼女はあまり譜面が読めなかったと云われていますが、音程の確かさは世界一でしょう。不安定なところが全然ありません。どんな種類の歌でも、自分の歌として、「こなす」というより、「歌ってしまう」という感覚のような気がします。 音程の確かさについては、高名な作曲家のコメント読んだことがあると記憶しています。 「美空ひばり」には、また色々とその人生に付随した物語があり、その起伏が彼女の存在を人びとに大きく惹きつけさせたと言う面もあるようです。 CDなどでいつも聴いているというほど熱心ではないですが、私も、時々テレビで彼女の歌を聴いて、その上手さに唸っている一人です。(2009) ■美空 ひばり(みそら ひばり、 1937年 ( 昭和 12年) 5月29日 - 1989年 ( 平成 元年) 6月24日 )は、数々のヒット曲を歌い銀幕スターとして多数の 映画 に出演した 昭和 の歌謡界を代表する 日本 の 歌手 、 女優 である。 女性として初の 国民栄誉賞 を受賞した。 横浜市 磯子区 滝頭出身。 愛称は御嬢(おじょう)。横浜市立滝頭小学校卒業。 精華学園 高等部 卒業 。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。          1943年6月、 第二次世界大戦 の戦時中に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、ひばりは父のために『九段の母』を唄った。壮行会に集まった者達がひばりの歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊からひばりの唄による慰問活動を始める。                 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 正直、この記事を書くため、ウィキペディアの全文を興味深く読んでしまいました。 「美空ひ

Freshness forever "Kyu Sakamoto"     爽やかさを永遠に「坂本 九」

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Freshness forever "Kyu Sakamoto"  爽やかさを永遠に「坂本 九」  「上を向いて歩こう」の曲とともに「坂本九」の名前は永遠に残るだろう。世界的にもスタンダードな曲になった「上を向いて歩こう」。素晴らしい曲ですね。また、「坂本九」の独特な歌い方がなんとも良いですね。あなたが好きなように、私もこの曲が大好きです。他にも「明日があるさ」など良い曲がいっぱいありますね。 早い旅立ちでした。人間の運命がどうなっているのか、というようなことも考えさせられるような出来事でした。 日本が誇る「歌手」の一人です。 「九ちゃん」。あの世から、この世に向けて、まだまだ、ご活躍祈ってます。(2009) ■坂本 九(さかもと きゅう、本名:大島九〈おおしま ひさし〉、 1941年 12月10日 - 1985年 8月12日 )は、日本の 俳優 ・ 歌手 ・ 司会者 。現在は坂本九の家族が運営する 坂本九音楽事務所 に名義のみ所属。 神奈川県 川崎市 川崎区 出身。 日本大学中学校 卒業、 日本大学高等学校 中退。愛称は九ちゃん(きゅうちゃん)。 妻は 女優 ・ 柏木由紀子 。柏木との間に娘が2人いる。長女は 大島花子 、次女は 舞坂ゆき子 (本名:大島舞子)。また「天才サックス奏者」と言われた 阿部薫 は甥(姉の息子)。 以下の表記は「九」で統一する。 全世界でのレコード売上は1500万枚以上 [1] 。 1961年の「 上を向いて歩こう 」は日本国外でも大ヒットした。中でも1963年には アメリカ でもっとも権威のあるヒットチャート誌『 ビルボード 』の「 Billboard Hot 100 」で3週連続1位を獲得した。Billboard Hot 100で1位を獲得した日本人アーティストは、 2009年 現在、九だけである。 1985年 にレコードレーベルを ファンハウス に移籍、 5月22日 に移籍後第1弾シングル「 懐しきlove-song / 心の瞳 」を発売して再び歌手活動を本格化させようとしていた矢先の 8月12日 、 日本航空123便の墜落 に遭い、43歳で死亡した。      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2009)

Saki Aibu is a refreshing lady popular among young people.  若者に人気の爽やかレディーの日本人「相武 紗季」

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Saki Aibu is a refreshing lady popular among young people. 若者に人気の爽やかレディーの日本人「相武 紗季」。 爽やかですね。男子中学生、男子高校生あたりに、かなり人気があるようです。 前にNHKの朝ドラ見たんですが、その爽やかさが印象に残っています。 テレビでのCMでも良く見かけます。スポンサーも爽やかさがお気に入りのようです。 もちろん、見た人に爽やかさが残ることを前提に採用しているわけですよね。 全国的に爽やかさを振りまいているわけで、大変に喜ばしいと言えます。 見た感じ、特に美人と言うわけでもないでしょう。 女性を強調した体つきでもないようです。 何となくいい感じだなと言う感じでグッドなわけですね。 ウキぺディアを読むと、いいろいろな才能もお持ちのようで、まだまだ楽しみですね。 頑張ってくださいよ~。 世界に羽ばたいてくださ~い。 海外でも人気の日本人アイドルになってください。(2009) ■相武 紗季(あいぶ さき、1985年6月20日 - )は、兵庫県宝塚市出身の日本の女優、アイドル、タレント。所属事務所はボックスコーポレーション。愛称は「アイブー」、「ぶっちぃ」、「さきっちょ」、「相武ちゃん」、「サキサキ」。親しい友人からは『ぶってぃー』と呼ばれている。身長は165cm。血液型はO型。スリーサイズはB84W57H87。 母は宝塚歌劇団卒業生(62期)の朱穂芽美(1976年入団、1982年退団)。姉は宝塚歌劇団87期生で星組娘役の音花ゆり エピソード [編集] 「相武」という名字は珍しく、よく芸名と間違えられる。 特技は、小学校から高校まで続けていたシンクロナイズドスイミング、競泳(平泳ぎ)。 競泳(平泳ぎ)は、中学生時代、宝塚市の大会で1位になった事がある。中学・高校では、水泳部で副部長を務め、“鬼の副部長”として恐れられるほど、後輩を厳しく指導していた。また、練習メニューを作成していたという。 シンクロにおいては、オリンピックで見た小谷実可子に憧れて始め、一時期は選手を目指すほど打ち込み、宝塚市の代表を務めた事もあるが、将来、オリンピックに出場出来ない事を思うようになり、中学3年生で断念。それ以降は、前述の競泳に打ち込んだ。 小学5年の頃から、本格的に始めた水泳で鍛えた身体は筋肉質だが、

Naoko Takahashi, a Japanese woman with a refreshing smile             爽やかな笑顔が魅力のマラソンランナー「高橋尚子」

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Naoko Takahashi, a Japanese woman with a refreshing smile  爽やかな笑顔が魅力の マラソンランナー 「高橋尚子」 「Qちゃん」の愛称でお馴染みの世界的に有名な日本人「高橋尚子」。 私はマラソン苦手です。長距離はきついですね。短距離ならいくらか活けてますが。 小さいときは、どういうわけか、幾らでも走れるって思ってました。そのうち、厳しい現実を知る事になり、自信を失ったんですが。当たり前かも。 マラソン平気でやる人、尊敬しますよね。 「高橋尚子」さんの場合、そのキャラクターが、また人気なんですよね。 あの爽やかな笑顔はどこから生まれるんでしょうか。やはり努力で身についたものでしょうか。 元々のものでしょうか。マラソンが好きだからでしょうね。 好きなことを一所懸命にやってると自然に、笑いが素直な爽やかなものになるような気がしないではないですね。 これからも「マラソン」をキーワードにして彼女は日本人の女性のトップランナーとして活躍されると思います。 陰ながら応援してます。(2009) ■高橋 尚子(たかはし なおこ、 1972年 5月6日 - )は、女性マラソンランナー。 2000年 シドニーオリンピック 女子マラソン競技で 日本人 女子 陸上競技 選手初となる オリンピック 金メダルを獲得。オリンピック記録保持者。女子マラソンの元 世界記録 保持者。 岐阜県 岐阜市 出身。 身長 163cm。 href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E6%B6%B2%E5%9E%8B" title="血液型">血液型 は O型 。 爽やかな笑顔と前向きな生き方から多くの ファン を生み出し、社会人時代初期から引き継いでいるQちゃんの愛称で親しまれている。 2009年 3月8日 の名古屋国際女子マラソンに、これまで応援してくれたファンや関係者に感謝する意味を込めて「ありがとうラン」として一般参加で出場した。終始、感謝の気持ちで笑顔を絶やさず沿道のファンに手を振りときおり頭を下げながら走り、2時間52分23秒で完走を果たした。ゴール後、かつてのライバルだったリディア・シモンが近づいてきて抱擁しあい、日本の現役選手からは花束を贈られ、長年

A genius who spins words, a melody maker that resonates with the heartstrings, and a Japanese who demonstrates the talent of creating songs to the fullest, Miyuki Nakajima.  言葉を紡ぐ天才、琴線に響くメロディメーカー、歌創りの才能を最高に発揮する日本人「中島 みゆき 」。

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A genius who spins words, a melody maker that resonates with the heartstrings, and a Japanese who demonstrates the talent of creating songs to the fullest, Miyuki Nakajima. 言葉を紡ぐ天才、琴線に響くメロディメーカー、歌創りの才能を最高に発揮する日本人「中島 みゆき 」。 「地上の星」が大ヒットして、紅白歌合戦に特別出演して、日本中の殆どが知る事となった。「地上の星」のほかに「わかれうた」「悪女」「空と君のあいだに」「旅人のうた」など数多くの、ひとびとの心を捉えた名曲がある。 彼女の創る歌は、私のようなものからすると、「驚異」である。よくもこのような表現と曲が簡単に(失礼!)できるものかと恐れ入ってしまう。本当に素晴らしいと思う。 彼女の言葉の使い方は感動的だが、やはり、1999年には文部科学省の国語審議会委員を務めているそうである。現時点でこの審議会の委員を務めた歌手は中島みゆきただ一人だけだそうだ。 肯ける話だと思う。大いに彼女のような言葉に敏感な、感性豊かな使い手の意見を取り入れて欲しい。(2009) ■追記 2016.11.17 なんと「地上の星」(公式チャンネル)は視聴回数 31,568,742 回、高く評価は36,817でした。やはり、大変なものですねえ。国民的という感じです。   ■中島 みゆき (なかじま みゆき、本名:中島美雪、1952年2月23日 - ) は、北海道札幌市出身(注・公式サイトでは札幌出身となっているが、大手マスコミのほとんどは帯広市出身として扱っており、ファンの間でも帯広出身とするのが常識となっている。詳細は経歴欄参照)のシンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。1975年にシングル「アザミ嬢のララバイ」でデビュー。暗く重い作風とラジオ番組などでの明るい語り口とのギャップで1980年代前半に大きな人気を博し、現在も根強い支持を受け続けている、日本を代表する女性シンガーソングライターの一人。公式ファンクラブ名は「なみふく」である。 オリコンで4つの年代に渡ってシングルチャート1位を獲得した(1970年代:わかれうた、1980年代:悪女、19

Japanese among Japanese, world pride "Hideyo Noguchi" 日本人の中の日本人、世界の誇り「野口英世」

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Japanese among Japanese, world pride "Hideyo Noguchi"   日本人の中の日本人、世界の誇り「野口英世」 ご存知、世界に誇れる日本人「野口英世」。偉人の代表として、小さい頃より、私も彼の物語を見たり聴いたりしてきました。 やはり、ひとつの思いで人生を貫くことは感動的です。私にはいまさら無理な生き方ですが、学ぶべきことは多々あります。 日本人だという、狭い了見での見方でなく、人間として何かを感じさせられる生き方ですよね。私のような「極小市民」から見ると、特に尊敬する人間ということになるんです。 特に、小さいときのアクシデントである「火傷」に纏わるエピソードは有名であるとともに、私たちに教訓として意識の中に畳み込まれていますね。 趣味が浪花節、将棋、囲碁、油絵というのは知りませんでした。 残された写真からすると、ちょっと意外な感じもありますが、「野口英世」の大きさも表しているのかも。 やはり、人間、気晴らしの術を持っていないと大成しないんでしょう。 でないと、神経衰弱になりますよね。 これも学ぶべき大切な事だと思います。(2009) ■野口 英世(のぐち ひでよ、明治9年(1876年)11月9日 - 昭和3年(1928年)5月21日)は日本の細菌学者。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。その他、ブラウン大学、イェール大学より理学博士を授与されている。称号はエクアドル共和国陸軍軍医監、名誉大佐。キリスト者。 黄熱病や梅毒等の研究で知られる。また、コッホから始まる細菌学的医学権威の最後の一人ともいわれる。ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して51歳で死去。 野口を主人公とした、子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い人物である。2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像になっている。 趣味は、浪花節、将棋、囲碁、油絵であった。アメリカ合衆国シャンデイケンに野口の設計した別荘があり、ここで油絵の多くは描かれた。 アメリカ・ニューヨークにあるロックフェラー大学の図書館入り口の双方には、ロックフェラーと、ロシア人彫刻家カニョンコフが制作した野口英世の胸像がある。この像はロックフェラー財団からの贈呈を受け、

Hironoshin Furuhashi, a Japanese who gave hope to post-war Japan 敗戦後の日本に希望を与えた日本人「古橋 廣之進」

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Hironoshin Furuhashi, a Japanese who gave hope to post-war Japan   敗戦後の日本に希望を与えた日本人「古橋 廣之進」    この記事を書こうとしてネット検索して驚きました。奇しくも「古橋 廣之進」さんは、この2日にローマで亡くなられていました。 「フジヤマのトビウオ」として世界に知られた日本人「古橋 廣之進」。 ご苦労様でしたと言いたいです。 私も幼い頃より、「古橋 廣之進」の苦労話は聴いています。食べるものが少なくて、少量の梅干入りの「おむすび」だけで世界新記録を出したと聴いています。 私の幼い心に、このエピソードはかなり刺激を与えています。 私が食べ物に、さほど関心が無いのも、この話と関係していると思っています。 「人間、粗食でも力が出せるんだ~」という認識が心に定着しているみたいです。 人間の体は必要な養分は、変換して造り出せると言う話も聴いた事があります。 食べる事にそれほど「意」を持たなくても良いんじゃないかと思ったことがあります。 ということで、小学5年だったと思うんですが、健康診断で「栄養失調」だと判定されたことがあります。 何故でしょう。それは、毎日の食事がご飯と梅干と生姜のみだったからです。特に、生姜の漬物が異様に好きになり、「凝って」しまったからです。 それ以後は反省して、他のものも食べるようにしましたが・・・。 そういう経験もあり、日本に希望を与えた日本人「古橋 廣之進」さんは、私にとって 忘れえぬ人です。(2009) ■古橋 廣之進(ふるはし ひろのしん、1928年9月16日 - 2009年8月2日[1])は日本の水泳選手であり、スポーツ指導者でもあった人物である。 1928年9月16日、静岡県浜名郡雄踏町(現・浜松市)にて生まれる。日本大学法文学部(現在は法学部)政治経済学科卒業。 第二次世界大戦終了後の水泳界で次々と世界記録を打ち立てて「フジヤマのトビウオ」の異名を取った。 現役引退後は大同毛織社員として活動した後、母校・日本大学の教授や日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会会長を歴任した。 2009年8月2日に世界水泳選手権が開かれていたイタリア・ローマにて客死。 1949年に日本の国際水泳連盟復帰が認められ廣之進ら6選手が全米選手権に招待されて参加し、400m自由形4

Korekiyo Takahashi, a courageous Japanese businessman 勇気ある経済通の日本人   「高橋是清」

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Korekiyo Takahashi, a courageous Japanese businessman    勇気ある経済通の日本人「高橋是清」  大正から昭和初期にかけて、日本の経済の復興と発展に尽力した日本人 彼は総理大臣も少しの期間だが勤めているが、私の拙い知識で行くと、「高橋蔵相」というイメージが固定したものである。彼は真のリベラリストとして世界に誇るべき日本人ではないかと思う。 彼の履歴を見ると、やはり若いうちに世界に飛び出し苦労し、見聞を広めている。そして、その語学力を支えに職を得て生業とし、機会を得て官職となりその真面目な性格と才能で成果を為して行ったのである。波乱万丈の成功物語がある。 「高橋是清」を今でも有名にしているのは、その死に様であろう。 彼はインフレ抑制のため、軍の予算をカットしようとして、軍の青年将校に殺害された。 日本の経済のため、果敢に政策を推し進めようとした結果であったが、実に残念である。 ただ、この結果を持って「是高橋清」は勇気ある経済通の日本人として、その名を残した。 ■高橋 是清(たかはし これきよ、愛称だるまさん、1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日) - 1936年(昭和11年)2月26日)は、日本の政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任: 1921年(大正10年)11月13日 - 1922年(大正11年)6月12日)。大勲位子爵。幼名は和喜次(わきじ)。総理大臣としてよりも蔵相としての評価の方が高い。 1934年に、共立学校での教え子にあたる岡田啓介首班の岡田内閣にて6度目の大蔵大臣に就任。インフレを抑えるために軍事予算を縮小しようとしたことが軍部の恨みを買い、二・二六事件で赤坂の自宅二階で青年将校達に暗殺された。           出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Kakuei Tanaka, a Japanese who acted as a bridge between China and Japan 中国と日本の架け橋を果たした日本人「田中角栄」

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Kakuei Tanaka, a Japanese who acted as a bridge between China and Japan  中国と日本の架け橋を果たした日本人「田中角栄」  私の記憶の中では、「田中角栄」が総理大臣になった時の新聞紙面が鮮やかである。 私は新聞を見ながら「これから日本は良い方に変わる」と喜んでいた。 学歴のない地方の土建屋の親父が一国のトップに立ったことは、少なからず多くの日本人に日本という国の持つ可能性に狂喜したと思う。 そして、日本は、彼の土建屋としての資質通りの「日本列島改造論」に則り経済面で 発展して行った。 いま、多くの反省点をもたらしている「日本列島改造論」だが、やはり、やり過ぎだった事は否めない。 バランスを重視した調和ある発展を考えるべきだったのである。 しかしながら「田中角栄」という人物は尋常な人物ではなかったと言える。 彼ほどその功罪を問題にされた総理経験者もいない。 彼は資金源のことで、表向きの政治生命を絶たれた。だが、裏面での力は簡単には費えてはいなかったようである。 「田中角栄」の最大の功績は何といっても、中国と日本との「国交回復」である。 彼の業績を表すエピソードとしては、鄧小平氏が1978年に来日した際に田中邸を訪問するなど、田中がロッキード事件により訴追された後も多くの中国政府の要人が田中邸を訪問したことである。 彼が世界に誇れる日本人であることは間違いない。(2009) ■田中 角榮(たなか かくえい、1918年5月4日 - 1993年12月16日)は、日本の政治家。元衆議院議員(16期)、内閣総理大臣(第64代、第65代)。初の大正生まれの内閣総理大臣である。 高等教育を受けていないという学歴で首相まで上り詰めたことから「今太閤」と呼ばれる一方、「コンピュータ付きブルドーザー」と形容される知識量・実行力や、巧みな官僚操縦術を見せつけるなど、党人政治家と官僚政治家の長所を併せ持った稀有な存在であった。首相在任中には、中華人民共和国との間の日中国交正常化や日中記者交換協定、金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応。日本列島改造論で一世を風靡したが、後にその政策が狂乱物価を招いたことや、金脈問題への批判によって首相を辞職。さらにアメリカの航空機製造大手のロッキード社による全日空への航空機