Japanese composer Minoru Endo delivered a message from Japan to the world, 日本からのメッセージを世界に届けた日本人作曲家「遠藤 実」。
Japanese composer Minoru Endo delivered a message from Japan to the world.
日本からのメッセージを世界に届けた日本人作曲家「遠藤 実」。昨年の暮れ、亡くなられた作曲家の遠藤 実さんは、本当に偉大な人だったと思います。
テレビの特番等で拝見しましても、人間の誠実さがヒシヒシと伝わってきました。
多くの素晴らしい歌手を育てられ、特に、アジアの人びとにも愛される多くの曲を残されました。
亡くなられた事が残念でなりません。
もっと活躍され、もっと多くの名曲を作って欲しかったと思います。
私の勝手な欲ではありますが・・・・・。(2009)
■遠藤 実(えんどう みのる、1932年7月6日 - 2008年12月6日)は、戦後歌謡界を代表する日本の作曲家である。
東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区向島)に生まれ、第二次世界大戦時に新潟県西蒲原郡内野町(現在の新潟市西区内野)にて疎開生活を送っていた。
新潟特有の門付けという演芸スタイルが、後の作曲家人生に大きな影響を与えた。門付けとは、越後獅子等の芸を民家の軒先で披露し、金品を貰う習慣である。
1949年、17歳の時上京。さまざまな職を経て、ギターを携えて流しの演歌師になる。
1956年、日本マーキュリーレコードより『お月さん今晩わ』にて作曲家としてデビュー。当時の芸名は星幸男で、現在に至るまで世に送り出した楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。
1965年、島倉千代子らのパトロンだった中山幸市(太平住宅創業者)の出資による太平音響株式会社の設立に加わり専務取締役、1968年にはレーベル名のミノルフォンを社名にも転用し、形式上の社長に就任した。先に創業した日本クラウンに続き、自前のプレス工場を持たず制作とプロモーションに特化して、アーティスト主導の運営を打ち出した新業態レコード会社の嚆矢の一社だったが、1972年に徳間康快(徳間書店)に買収され徳間音楽工業と改称、さらに系列レーベルの別会社ジャパンレコードと合併して徳間ジャパン(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)に改組した。
1988年、ハワイで心臓のバイパス手術を受ける。
2003年、歌謡界から初めて文化功労者に選出された。
2008年12月6日10時54分、急性心筋梗塞のため東京都内の病院で逝去。76歳没。
2008年12月19日、日本国政府は遠藤実に対し、数々の楽曲で大衆音楽発展に尽くした彼の功績を讃え、死去した12月6日付で正四位に叙し、旭日重光章を授与することを決め、更に2008年12月26日、2009年1月23日に国民栄誉賞を授与することを閣議に於いて正式決定した[1]。国民栄誉賞の受賞は陸上選手の高橋尚子以来8年ぶり16人目の受賞で、作曲家では古賀政男、服部良一、吉田正に次いで4人目の受賞者であった。
晩年は「再販制度廃止反対」運動を行っていた縁から、日本共産党の不破哲三前議長と交流があった[2]。
主な作品
お月さん今晩わ(藤島桓夫、1957年4月)
からたち日記(島倉千代子、1958年11月)
浅草姉妹(こまどり姉妹、1959年11月)
アキラのズンドコ節(小林旭、1960年)
ソーラン渡り鳥(こまどり姉妹、1961年5月)
おひまなら来てね(五月みどり、1961年5月)
襟裳岬(島倉千代子、1961年6月)
若いふたり(北原謙二、1962年8月)
高校三年生(舟木一夫、1963年7月)
ギター仁義(北島三郎、1963年8月)
修学旅行(舟木一夫、1963年9月)
哀愁出船(美空ひばり、1963年)
君たちがいて僕がいた(舟木一夫、1964年5月)
星影のワルツ(千昌夫、1966年3月)
こまっちゃうナ(山本リンダ、1966年11月)
新宿そだち(大木英夫・津山洋子、1967年10月)
ついてくるかい(小林旭、1971年4月)
純子(小林旭、1971年10月)
せんせい(森昌子、1972年7月)
中学三年生(森昌子、1973年2月)
くちなしの花(渡哲也、1973年8月)
白樺日記(森昌子、1973年8月)
おかあさん(森昌子、1974年8月)
すきま風(杉良太郎、1976年10月)
北国の春(千昌夫、1977年4月)
夢追い酒(渥美二郎、1978年) 1979年の年間第1位
みちづれ(牧村三枝子、1978年10月)
雪椿(小林幸子、1987年6月)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2009)
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