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Pioneer of the Japanese pop world, Japanese "Shinji Tanimura" 日本ポップス界の先駆者的な日本人「谷村 新司」

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Pioneer of the Japanese pop world, Japanese "Shinji Tanimura" 日本ポップス界の先駆者的な日本人「谷村 新司」。 私も大好き「谷村 新司」。 日本だけでなく中国や東南アジアの国々でも、「谷村 新司」は、その名を知られているといいます。 彼の作る歌は格調高きものが多いですね。 「昴」にしてもそうですが、ただカラオケでうまく歌うためには、かなりの基本的な訓練が必要みたいです。 本当に歌いこなすのはかなり難しいみたいです。(2009) 2023年10月、亡くなられました。本当にありがとうございました。 ■谷村 新司(たにむら しんじ、1948年12月11日 - )は、日本のシンガーソングライター、タレント、作詞家、作曲家、大学教授。愛称はチンペイ。 大阪市東住吉区出身。表彰歴には日本赤十字社金色有功章など 『昴』や『群青』『三都物語』といったシングル曲のイメージからか、CDが演歌のコーナーに置かれることも多いが、過激なまでに新たな試みに挑戦し続ける姿勢はロックそのものであり、そのスピリットはアルバムの収録曲にも十分に現われている。アジアでのコンサート活動や、ディナーショーを始めた時も理解者は少なく、嘲笑や批判の声が多かった。しかし現在では、日本のロック、ポップス系アーティストのアジアでの活動や、ディナーショーも、普通の事としてすっかり定着してしまっている。こういった活動のパイオニアとしても、谷村新司はもっと評価されるべきだろう。 『いい日旅立ち』『三都物語』『いい日旅立ち・西へ』『風の暦』などJR西日本等の鉄道のCMで谷村の歌が頻繁に使われているため、鉄道ファンからの人気も高い。中には谷村の声を聞くだけでJR西日本の車両を連想する鉄道ファンもいる。 コンサートのクオリティの高さには定評があるが、2003年を最後にコンサート・ツアーを一旦休止。 2004年からは中国・上海音楽学院で教授を務めている。同年、中国の歌手毛寧のアルバム『我』をプロデュース。 2000年、インディーズ・レーベル「mama's & papa's」を立ち上げたものの、リリースしたシングルは『ハーヴェスト』1曲のみで、ファンをやきもきさせた。2006年には業界大手エイベックスに移籍、6年ぶりのシングル『

A master of mystery novels with an outstanding imagination.卓越した想像力を持った推理小説界の巨匠「松本 清張」

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  読んだ小説は僅かなんですが、作品の多くが映像化されていて、目にすることが多いですね。 ホント、想像力の豊かさには驚かされますね。描きたい題材が頭の中に満ち溢れていたらしいですね。結果として、全ては作品として残しえなかったということでしょうか。 薬の行商をされてたことがあると記憶してますが、そこで培われた土地についての観察、洞察が凄いと思います。また、人についても、人並み以上の関心、見識で奥行きのある人間像が浮かび上がっています。 故の大作家なわけでしょうけど・・・ ■ 松本 清張 (まつもと せいちょう、 1909年 12月21日   [注釈 1] -   1992年 8月4日 )は、 日本 の 小説家 。 1953年に『 或る「小倉日記」伝 』で 芥川賞 を受賞。以降しばらく、 歴史小説 ・現代小説の 短編 を中心に執筆した。1958年には『 点と線 』『 眼の壁 』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、 社会派推理小説 ブームを起こす [2] 。以後、『 ゼロの焦点 』『 砂の器 』などの作品も ベストセラー になり、 第二次世界大戦 後の日本を代表する作家となる。その他、『 かげろう絵図 』などの 時代小説 を手がけているが、『 古代史疑 』などで日本 古代 史にも強い関心を示し、『 火の路 』などの小説作品に結実した。 緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される [注釈 4] 。また、『 日本の黒い霧 』『 昭和史発掘 』などの ノンフィクション をはじめ、近現代史に取り組んだ諸作品を著し、 森鷗外 や 菊池寛 に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた。         <ウィキペディアより>

Takuro Yoshida, a traveler who continues to talk about his youth 青春を語り続ける旅人「吉田拓郎」

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Takuro Yoshida, a traveler who continues to talk about his youth     青春を語り続ける旅人「吉田拓郎」 懐かしいですね!「吉田拓郎」。ただ懐かしがっていては申訳ないんですが。見掛けはかなり変わられたように思いますが、今も元気で大活躍されてますね!彼の歌には、常に心の中にあるものを見詰めて行くという姿勢が感じられますね。「永遠の青春」というような言葉が似合うような気がします。 彼は、団塊の世代にとっては国民的歌手という感じではないでしょうか。間違いでなければ、今はどちらかといえば歌創りの裏で活躍されているようですが、私たちには、マスコミが「吉田拓郎」本人をもっと取り上げた番組を作って欲しいですね! (2009) 最近まで、折に触れ、メディアにも出られ活躍されてましたね。 「神田川」の拓郎バージョン カッコいいですね!最高ですね!しびれますね! 追記ですー。2016.11 拓郎さんも、70才。やはり年を召された感はありますね。ですが、お気持ちは若いですね。いいですね! 70歳の拓郎さんの歌声を存分に聴きたいものです。 昨年(2022年)に引退されましたね! 音楽活動はされないということですが、ラジオ出演などのメディアには登場されてますね! いつまでもお元気で! ■吉田 拓郎(よしだ たくろう、 1946年 〈 昭和 21年〉 4月5日  - )は、 日本 の シンガーソングライター 、 音楽プロデューサー 、 俳優 。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう。 鹿児島県 伊佐郡 大口町 (現在の 伊佐市 )生まれ [5] [6] [7] 、 広島県 広島市 育ち [8] [9] [10] 。 人物 [ 編集 ] 竹田企画(事務所)、 avex trax (レコードレーベル)に所属。 フォーライフ・レコード の第2代社長を務めた。楽曲提供者としては入江剣のペンネームを用いることがある [注 2] 。 妻は 森下愛子 ( 1986年 結婚) [12] [13] 。元妻は 四角佳子 ( 1972年  -  1975年 ) [14] → 浅田美代子 ( 1977年  -  1984年 ) [13] [15] 。 日本の シンガーソングライター の草分け的存在であり [8] [9] [16] [17]

``Morihei Ueshiba,'' a Japanese martial artist who told the world about the supernatural. 神業を世界に伝えた日本人武道家「植芝 盛平」。

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``Morihei Ueshiba,'' a Japanese martial artist who told the world about the supernatural.  神業を世界に伝えた日本人武道家「植芝 盛平」。 将に神業としか言いようのない「植芝 盛平」の技。凄いです。 合気道の存在は早くから知っていましたが、現実に接点がなく、残念です。 習いたかった。 柔道は少し齧ったんですが。 私の気性としては合気道のほうが合っていたと思います。 いや~、素晴らしい。(2009) > ■植芝 盛平(うえしば もりへい、1883年12月14日 - 1969年4月26日)は武道家。日本の合気道の創始者。 合気道関係者は開祖、特に古い高弟は大先生、翁先生(おうせんせい)と呼ぶことが多い。親英体道の開祖井上鑑昭(いのうえのりあき)は甥にあたる。 エピソード 植芝は昭和18年に岩間に隠棲したが、自身も合気道を学ぶ内田樹によると、陸軍幹部が合気道の技術を高く評価し、軍事教練での合気道必修化(剣道柔道の廃止)への協力を要請。)[要出典] それに対し「それは日本人全員を鬼にするということである」と激怒した植芝がそのまま東京去ったことが理由だとしている。 (ブログ「内田樹の研究室」2007年09月06日」 他の資料では「腸の病気」が岩間への隠棲の理由だとするものもある。 戦時中に大本教の出口王仁三郎の護衛をして、満州に行く。数々の死線を通じて銃弾を避けられるようになった。)[要出典] 敵の銃弾より先に赤い光が飛んでくるので、それを避けるだけなのだという。また剣を相手にしたとき、まず白いモノが振り下ろされ、それを避けると必ずそのあとに本物の剣が振り下ろされたという。植芝の超人的な逸話は数多く残されている。500mほど先の四方に潜んでいる敵を手に取るように察知することができ、その他にも坂道を上っている時、植芝の背中を押していた弟子が急に手を放してもそのまま坂の角度に対し直立不動で歩いていったという。)[要出典] 『陸軍の砲兵の方が、鉄砲の検査官を連れてきた時、その人達を前にして演武を行った植芝先生が「ワシには鉄砲は当たらんのや」と言い、私と湯川さんのお供で大久保の射撃場で試すことになりました。一人ではなく六人がかりです。用いた銃はピストルでした。その有効射程距

Yuichiro Miura, a Japanese professional skier who pleases the Guinness Book of Records.  ギネスブックを喜ばせる日本人プロスキーヤー「三浦 雄一郎」。

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Yuichiro Miura, a Japanese professional skier who pleases the Guinness Book of Records.  ギネスブックを喜ばせる日本人プロスキーヤー「三浦 雄一郎」。 テレビのコマーシャルでお馴染みの「三浦 雄一郎」さん。いいですね。年をとっても彼のようでありたいですね。熟年の代表選手といったところですね。 彼の挑戦はそのままギネスブックの掲載記録になるんですね。素晴らしい。 しかし、少し前に怪我をされたそうですね。早く治るといいですね。 リハビリ頑張ってください。(2009) ■三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう、1932年10月12日 - )は、青森県青森市生まれのプロスキーヤー及び登山家である。クラーク記念国際高等学校校長、全国森林レクリエーション協会会長。 父の三浦敬三も山岳スキーヤーで、長男の三浦雄大は競技スキーヤー、二男の三浦豪太はリレハンメルオリンピック・長野オリンピック出場したフリースタイルスキー・モーグル選手。 略歴 旧制黒沢尻中学校(現岩手県立黒沢尻北高等学校)に入学、その後青森県立弘前高等学校に転校し卒業、北海道大学獣医学部に進学。母校の北大獣医学部に助手として勤務後、1960年代始め頃からスキー学校を開設し[1]プロスキーヤーとして活躍、1964年7月イタリアで開催されたキロメーターランセに日本人で初めて参加、時速172.084キロの当時世界新記録を樹立(なお、この前後に3度転倒し、「世界で最も速い速度で転倒して無傷で生還する」という珍記録も樹立している)。1966年4月富士山直滑降、1970年5月エベレストのサウスコル8000m地点からの滑降(ギネスブックに掲載)など世界七大陸最高峰からの滑降を成し遂げた。 1973年青森大学工学部生物工学科教授就任。 2003年5月22日、世界最高峰のエベレストに世界最高齢(ギネスブックに掲載)となる70歳7か月での登頂を果たす。同時に二男・豪太との日本人初の親子同時登頂も遂げた。 1971年スポーツ英雄大賞(スペイン)、1975年に米アカデミー賞(長編記録映画部門)=「THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST」。1992年4月からクラーク記念国際高等学校(北海道深川市納内)校長。2006年6月からNPOグローバ

■Chiune Sugihara, personification of Bushido spirit■ 武士道精神の具現者 「杉原千畝」さん■

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■Chiune Sugihara, personification of Bushido spirit ■武士道精神の具現者「杉原千畝」さん■ 「 日本 のシンドラー」、「東洋のシンドラー」などと称されている元外交官の「杉原千畝」さんの物語をYouTubeで視ました。以前より、うっすらとは知っていたのですが、改めて彼のことを詳しく知ったのです。涙がぽろぽろ出ました。「 日本人 ここにあり」と感嘆した次第です。 日本 で、よく言われる 「武士道」の精神をそのままに発露された人だと思いました。 「弱きを救け強きを挫く」「義を見てせざるは勇なきなり」などの言葉が思い出されました。 海外では「センポ・スギハラ」として、かなり有名になって来ているようですね。 日本 でも顕彰活動が行われていますね。日本でも海外でも、もっともっと知ってほしい 人だと思います。(2009) ■ 杉原 千畝 (すぎはら ちうね、 1900年 〈 明治 33年〉 1月1日   -   1986年 〈 昭和 61年〉 7月31日 )は、 日本 の領事館員のち 外交官 ( 1943年 )。 中学校入学までは税務官吏である父親の異動のために各地を転々とし、父親の単身赴任後は 愛知県 名古屋市 に住んで、旧名古屋古渡尋常小学校と旧第五中学校に通い、卒業後に上京して早稲田大学高等師範部英語科(現・教育学部英語英文学科)に通ったが、外務省留学生試験合格のために本科中退した。 第二次世界大戦 中、 リトアニア の カウナス 領事館に赴任していた杉原は、 ナチス・ドイツ の迫害により ポーランド など欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、 外務省 からの 訓令 に反して [1] 大量の ビザ (通過査証)を発給し、避難民を救ったことで知られる [2] [3] [4] 。その避難民の多くが ユダヤ人 系であった [注釈 1] 。『勲五等瑞宝章』 1944年 それまでの功績により叙勲。「東洋の シンドラー 」などとも呼ばれる。 彼が残した「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」という言葉は、有名である。      「ウィキペディア」より  (2023)

Masao Sen, a Japanese famous beyond Japan. 日本を越えて有名な日本人「千昌夫」

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Masao Sen, a Japanese famous beyond Japan. 日本を越えて有名な日本人「千昌夫」。 ご存知「千昌夫」。 「星影のワルツ」や「北国の春」で日本のみでなく、中国や東南アジアなどでも かなり有名になっていると聞いている。 特に「北国の春」は中国では誰でも知ってる歌になっている様だ。 私も大好きで、よく口ずさんでいる。 自然に出てくるメロディーと歌詞。本当に良いものだ。 「極小市民」にはもってこいのうたですね~。 彼の人生も起伏の大きい稀有な人生のようだ。 あの「黒子」は何を表しているのか。 今は、また地道に歌手としての活動に専念されているように見受けられる。 頑張って欲しい。(2009) ■千 昌夫(せん まさお 本名:阿部健太郎、1947年4月8日 - )は演歌歌手。プロ野球東北楽天ゴールデンイーグルスファンクラブ名誉会員(会員No.7)。 1965年、作曲家遠藤実に入門。同年9月5日、「君が好き」でデビュー。 「星影のワルツ」(1966年3月24日発売)が1967年秋頃より大ヒット、ミリオンセラーとなり、1968年『NHK紅白歌合戦』に初出場する。その後「君がすべてさ」、「アケミという名で十八で」「懐かしの人」などが10万枚を超えるヒットとなる。 1972年、アメリカ人歌手ジョーン・シェパードと結婚し、松下電器(現・パナソニック)のパナカラー・クイントリックスやいすゞ自動車のアスカ、象印マホービンのCMに夫婦で出演したが、1988年に離婚した。後に外国人の女性(アマンダ夫人)と再婚し、子供を3人もうける。 1979年、1977年4月5日発売の「北国の春」が大ヒット、二作目のミリオンセラーとなり、第21回日本レコード大賞ロングセラー賞受賞。その他に「望郷酒場」「夕焼け雲」「味噌汁の詩」「津軽平野」などのヒット曲も生まれ、歌手としての黄金時代を迎える。 1970年、仙台市に十万坪の土地を四千万円で購入した。東北新幹線の着工決定が手伝い、購入した土地の地価は十倍にも上昇した。このことがきっかけとなり、1972年「アベインターナショナル」を設立。次第に不動産業に手を出すようになり、やがてバブル期には不動産会社を設立し歌手を休業。不動産業に専念した。この時期「歌う不動産王」「ホテル王」と呼ばれるほど、世界各地にマンションやビルなどを所有し

Tsuyoshi Nagabuchi, a Japanese with a strong personality and many fans 強烈な個性でファンの多い日本人「長渕 剛」

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Tsuyoshi Nagabuchi, a Japanese with a strong personality and many fans 強烈な個性でファンの多い日本人「長渕 剛」 私もファンの一人かな。彼の歌が好きです。「乾杯」「トンボ」などいい曲がいっぱいあります。 カラオケに行った時、自分で歌ったり、ひとにリクエストしたりします。 彼の歌には何かしら、人を惹きつける要素があります。人間存在の真実かな。 素直なんでしょう。小細工のないところがいいんでしょうね。 彼のことを、「天才」と評した芸能関係者もいるようです。私も思います。 「長渕 剛」は天才的日本人の一人です。(2009) ■(ながぶち つよし、1956年(昭和31)9月7日 - )は日本のシンガーソングライター、俳優。本名同じ。「長淵 剛」は、誤記。鹿児島県鹿児島市出身(出生は日置市伊集院町)。Office REN(オフィス・レン)所属。 1977年、シングル『雨の嵐山』で歌手としてデビュー。(※一般的には再デビューの1978年『巡恋歌』を本格デビューとしている。)『順子』や『乾杯』、『とんぼ』、『しゃぼん玉』、『しあわせになろうよ』などのヒット曲を持ち、また、俳優としては、『親子ゲーム』や『とんぼ』、『オルゴール』などのドラマや映画出演で知られる。 ソロアーティストとしてアルバム初登場一位獲得数12作品という記録をもっている。またソロアーティストでは井上陽水、槇原敬之とともにシングル売り上げ1000万枚を突破している。 鹿児島市立中郡小学校、鹿児島市立甲南中学校、鹿児島県立鹿児島南高等学校情報処理科を経て、九州産業大学芸術学部写真学科中退。 1981年8月、石野真子と結婚。結婚式はハワイの教会で、仲人は吉田拓郎と浅田美代子夫妻(当時)だった。1983年5月、長渕のDV(家庭内暴力)が決定的理由で離婚。1987年、元女優の志穂美悦子と再婚。 志穂美との間に娘と息子がいる。長女の長渕文音が、2008年10月公開の映画「三本木農業高校、馬術部」(監督:佐々部清)の主役で女優デビューした。        出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2009)

Ninomiya's virtuous Japanese "Toshio Doko" who appeared in the Showa era 昭和の時代に現れた二宮尊徳的な日本人「土光敏夫」

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Ninomiya's virtuous Japanese "Toshio Doko" who appeared in the Showa era この人の言動からすると、どうしても経済復興の神様的日本人である「二宮尊徳」を連想してしまう。 多くの会社を建て直し、日本の国を立て直そうと頑張った人。 その人の質素な生活。私もテレビを観ていて驚き、感動した。 仕事に生きる人は違ってました。 やはり仕事以外にさほど興味がなかったはず。それでいいのだ。 「行革の鬼」ほかの多くのあだ名を持つ、仕事請負人的日本人「土光敏夫」。 素晴らしい人生でした。(2009) ■土光 敏夫(どこう としお、1896年(明治29年)9月15日 - 1988年(昭和63年)8月4日)は、昭和時代の男性エンジニア、実業家、財界人。第4代経済団体連合会(経団連)会長。位階勲等は従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。称号は岡山県名誉県民。 昭和56年(1981年)には鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に請われて第二次臨時行政調査会長に就任。就任に当たっては、 首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。 増税によらない財政再建の実現。 各地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進 3K(コメ、国鉄、健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。 以上、四箇条の申し入れを行い、実現を条件とした。行政改革に執念を燃やし、2年後の昭和58年(1983年)に行財政改革答申をまとめ「増税なき財政再建」「三公社民営化」などの路線を打ち出し、さらに昭和61年(1986年)までは臨時行政改革推進審議会の会長を務め、行政改革の先頭に立った。謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から、「ミスター合理化」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「めざしの土光さん」の異名を奉られた。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2009)